自分語り
ブログを始めたのは、正直に言えば、記録を残そうと思ったからで、あわよくば、知り合いでもなんでもいいので反響がほしいと考えています。
自分は、もともと文章を書くのは不慣れで、まともにたくさんの文章を書くことになったのは大学に入学してからでした。
レポート等を書いて間もないころは、本当に書くことに慣れていなくて、いちいち文法を気にしたり、言葉の意味を調べたり、苦行のような体験をしました。文法を気にするネイティブなんてそうそういないでしょ。
ただ、書いていくうちにだんだんと要領を掴んできたのか、文章のレベルはあれど書く上で、言葉の意味とか文法とかはそれほど関係ないことに気づいてからは、あまり読まなかった本を読むようになって、レポートを書くのも、単位がもらえればいいわけだし、小学校でいう図工の時間となんら変わらないじゃんと思うようになってた。
言葉の意味とか文法とか関係ないというのは、相手に伝わるように書けばいいということはもちろんかもしれないけど、自分の文章だし、何をしようが、どういう言葉を使おうが勝手でしょというレポートには好ましくない独りよがりな考え方によるところが大きい。
だから、思ったほど文章を書くというのは制約が少なく、自由度が高いと思った。
本を読まない人、親しみのない人からすると、長文を書くということが最も億劫になることだと思う。けど、書いてみるとそんなことはなかった。それだけだった。
あともう一つは自分の思いや考えを言葉に表してみたかったからというのが理由。
自分はなんでも斜に構えるようなところがある。そのせいで、既にこの短い人生の中でクソほど失敗もしたし、損をしている。
そして意外と恥ずかしがり屋でもある。高校進学までは、自分の考え云々よりは、世間一般の考え方を重視するべきという思考の元動いていたから、自己表現力に乏しい面があると勝手に思っている。
高校に入ってから、人間関係の汚さに若干絶望した。古くからの知り合いには変わったねと言われた。そこから、若干、人を信じたくなくなってしまった。人を簡単には信じないということが斜に構えるということに繋がったのだろうか。
大学に入ってからは、人間関係は良好だったと勝手に思っている。良好というよりは問題なかったというのが正しいか。ここまで来ると既に周りも割り切った考え方を持つ人が多かった。
しかし、オタクはまるでダメだった。オタクだけは本気で憎んだと思う。自分もオタクの片棒を担ぐ者だが、まるで違う。他人や他集団のことをほとんど考えず、自分のことばかり考えるようなオタクはたちが悪い。だからいつまでたってもキモいんだ。そのせいでカウンセリングにも行ってしまったし、過度に自分を責めるのはよくないのだと学んだ。
そしてそこで収めた学問はさらに問題だった。社会学は、知れば知るほど社会に絶望するし、なにより
これまで経験した悪いものすべてがほとんど根拠に近いものとともに客観的な記述で起こされているような気がした。
しかし逆になんでも文字に起こしてしまうのはすごいと感じる。
某SNSでは当たり前なことを言えば賞賛を浴びるらしいが、社会学をその上を行って
当たり前を解説する。
家族の機能なんて説明する学問はほかにないでしょ。
身近なものだけど以外とそれらの要素を一つ一つ説明するのはとても難しい。だから学問になってんだけど。
そういう「なんでも学問にできる自由度」と「文字の力を以ってすべてを言語化する力感」がとても魅力的だった。
でもそれは、学問をする側としての意見だ。今は俺はただの穀潰しでしかない。
誰も、自分の話を聞いてくれるものなどいないし、学問をする気などもう消え失せた。
だから、今の自分にとってその学問は知りたくなかったものであったし、絶望を俺に植え付けた張本人であり、無用の長物だ。大学になんて行かなきゃよかったと思わせた。
でもちょくちょく本や記事は読んでしまう、そんな存在になってる。
それは、世にある正論という正論をぶち壊し、気持ちの悪いステレオタイプを覆せるという期待みたいなのがあるからだ。そう思うのは自称マイノリティ故なんだ。そんな痛快なことを一度はやってみたかった・・・
自分語り終わり